日本における最初のテレビ女優としてテレビ放送がスタートした1952年からキャスター・司会としても活躍する黒柳徹子さん。
若い頃は美人だったと評判ですが、インターネット上では別人の画像も多く出回っているため、写真を精査しつつまとめてみました。
黒柳徹子の若い頃は美人で可愛い
黒柳徹子さんの若い頃が美人で可愛いのはホントです。時代の流れに沿って黒柳徹子さんの写真をご紹介していきたいと思います。
幼少期~学生時代まで
黒柳徹子さんは1933年8月の戦前に東京で生まれました。実家は裕福でしたが幼少期は落ち着きがなく問題児とみなされており、小学校1年生の時には学校を退学となっています。その頃の障害についてはページの後半であらためて解説したいと思います。
お父さんはバイオリニストでした。写真からも感じ取れますが、この時代にもかかわらず先進的で恵まれた家庭環境だったことがうかがえます。
転校先のトモエ学園の自由な校風に水を得た魚のようになった黒柳徹子さんは一時的に青森県に疎開したものの、1945年の終戦後に東京へ戻り無事に卒業を果たしました。
この時代にはまだ珍しかったミニのワンピース。お母さんの手作りだそうです。
※1945年(12歳)青森県に疎開していた頃の黒柳徹子さん
トモエ学園を卒業後は、私立の名門女子校である香蘭女学校(当時は5年制)へ入学。
その後は東洋音楽学校(今の東京音楽大学)の声楽科へ入学。
青春を謳歌している感じが出てますね!
音楽学校の卒業~20代まで
音楽学校を卒業後、当初の目標だったオペラ歌手は「歌詞が覚えられない」との理由であきらめることとなります。その代わりに「自分の子供に絵本を上手に読んであげられるお母さんになろう」という想いで、テレビの道を志しました。
NHK放送劇団の入社試験は難関でしたが約6,000人の応募者の中から13人の採用枠に残り、日本のテレビ女優の第一号となりました。
※NHK入社当時の黒柳徹子さん
※1953年頃の黒柳徹子さん
※デビュー当時の黒柳徹子さん
※デビュー当時の黒柳徹子さん
※NHKテレビ女優第一号として活躍
以下はスタジオ中の待ち時間の一枚。マイクの上に鼻を置くことで、頭の重さが鼻にかかってリラックスできるそうです(本人談)
※20代前半の黒柳徹子さん
20代はNHKに在籍していたため、割と画像が多く残っています。
※同様NHK時代
以下は1959年(26歳)の頃の黒柳徹子さんです。
黒柳徹子さんご本人からも、ご自宅で見つけた昔の写真が公開されます。タンスの上のパンダのぬいぐるみは、戦前から現在に至るまで、ずっと大切にしているらしいですよ。なんだか、黒柳徹子さんらしいキュートで暖かいエピソードですよね。
※20代の頃の写真
以上、20代の黒柳徹子さんでした。
上品さと天真爛漫さを兼ね備えたような美人さんですよね!
30代~
黒柳徹子さんは演技力を伸ばしたいと考え、1961年に復活した日本を代表する老舗の劇団、文学座の付属研究所に3期生として入所。NHKを退職して、本格的に演技の道を探求しました。
※1963年(30歳)の黒柳徹子さん
時代を踏まえると、飛びぬけて垢ぬけていたのが見て取れますね。もちろん世の男性も放っておかず、特に30代前半の頃までは、割と頻繁に求婚されていたそうです!
「(30歳になってみた時に自分の状況は)あんまり変わんなかったように思います。ただね、結婚なんか申し込まれたりしたわね、その頃割と。」
出典元:VOGUE
同じく1963年(30歳)の頃の一枚。テレビ朝日(当時のNETテレビ)の開局時期にも関わっていました。
1964年(31歳)の頃、テレビ番組「夢であいましょう」でアランドロンさんが黒柳徹子さんを口説く演技をしたときの画像です。
1964年(31歳)の頃、1958年(25歳)に紅白歌合戦の司会を務めたときを振り返るというテーマで取材を受けた時の写真。
貴重な髪型の写真。ほんの一時期だけですが、センター分けにしていた時期もあったようです。風が吹いた時に視界が見えなくなり車に轢かれそうになったのでやめたそうです(笑)
※30代中盤の頃の黒柳徹子さん
1968年(35歳)頃とされる写真。今の時代のファッション雑誌に載ってもおかしくないくらい、ファッショナブルですね。
具体的な年代は不明ですが、同時期と思われる写真。アーティスト感がありますね!
黒柳徹子さんは1970年(37歳)の頃、帝国劇場で舞台「スカーレット」に出演。ブロードウェイのスタッフと親交を深めました。その縁で翌年にはニューヨークの演劇学校へ1年間の留学をしています。
※38歳の頃、ニューヨークへ留学中の黒柳徹子さん。
美人で可愛いのは当然として、ファッショナブルな独特の感性やセンスを感じさせる一枚ですね。NY生活については次の章でもう少し詳しくご紹介します。
NY留学を経て帰国後、以下は1972年(39歳)の頃の黒柳徹子さんです。
若い頃と呼べるかギリギリの年齢に差し掛かってきましたが、相変わらず美人さんですね!
※以下は同時期の1971年頃(38歳)の雑誌のインタビュー時の写真です。NY留学の前後いずれかと思われます。
以上、30代の黒柳徹子さんでした!
ニューヨークでのエピソード
黒柳徹子さんのニューヨーク時代については前章でも写真を紹介しましたが、もう少し深堀してみましょう。
※ニューヨーク、38歳のころの黒柳徹子さん
黒柳徹子さんは38歳を迎えた時、いったんお仕事を休んで一年間NYに留学に行きました。
すでに芸能界の一線で活躍していた時期でしたが、忙しさに流されるだけでなく、一度立ち止まって今後の自分の方向性を見つめなおしたいという想いがあったそうです。
※ニューヨークの街頭で綿あめを頬張る黒柳徹子さん
このあたりの感性は、直観力に優れた感性で自由に生きる黒柳徹子さんらしいエピソードですよね!
※NY5番街にて、振袖姿でポーズをとる黒柳徹子さん。
パレードに参加した際のもので、アメリカでは無名にも関わらず翌日のニューヨークの新聞で掲載されました。
ニューヨーク時代には仕事はまったくおこなわず、ブロードウェイの演劇学校に通っていました。授業以外では「スカーレット」の公演で仲良くなった有名な作曲家であるハロルドローム夫妻にお世話になり、毎日のようにいろいろなアーティストを紹介してもらっていたようです。
当時はいろんなアーティスとのホームパーティに連日のように振袖で顔を出しており、その個性的な佇まいとユニークな語り口で、黒柳徹子さんはニューヨークでも人気者だったようですよ!チャップリンやアンディーウォーホル、リリアンギッシュなど、錚々たる顔ぶれのビッグネームと交流していたようです。
※ヘアドレッサーの須賀勇介さんと、後の代名詞となる玉ねぎヘアを作り上げた
しかしニューヨークの芸術家との付き合いにおいては、お金や才能や個性を見せて輝かないと、二度とパーティに呼んでもらえなくなるシビアさもあったようです。黒柳徹子さんのトレードマークの玉ねぎヘアは「和服にも洋服にも合う個性的な髪型を!」ということで、ニューヨーク時代にヘアドレッサーの須賀勇介さんと開発した発明だったみたいです!
若い頃に抱えていた病気や障害とは
黒柳徹子さんは戦前の生まれにも関わらず、好奇心旺盛で自由な人生を生きてきた女性です。ご自身の個性を強みを武器として歩まれてきたわけですが、幼少期にはその点でご苦労なさったこともあったようです。
※幼少期の黒柳徹子さんとお母さん
作家としての代表作「窓際のトットちゃん」では、もともと近所の小学校に通っていたものの、3か月間ほどで退学扱いとなったことが記されています。黒柳徹子さんはご自身で当時を以下のように振り返っています。
なんで退学になったかというと、おもしろがって机のフタを(昔の学校の机は上に開いたから)授業中に百回ぐらい開けたり閉めたりしちゃったの。つばめが巣を作って、行ったり来たりしているのを見て、授業中に窓から身を乗り出して「何してるの」「何してるの」と何度もつばめに聞いたりもしたらしい。
出典元:通信制高校があるじゃん!
当時は単に変わった子供として扱われてしまったことが、容易に想像できますね。内容からすると、現代では発達障害として扱われるものと思われます。
しかし、転校先のトモエ学園では運命の恩師である小林先生に出会います。黒柳徹子さんが最初に登校した日、校長である小林先生が「なんでも話してごらん」と言うので6歳の黒柳徹子さんは4時間も続けてご自身の話を続けたそうです。話すことが尽きたことを先生に告げると小林先生は「じゃあ、みんなと昼ご飯を食べにいこう」とおっしゃられたそうです。
トモエ学園はリトミック教育という教育方針を取り入れた先進的な学校でした。子ども本人が自らの感覚を大切にしつつ、自主的に学ぶ姿勢を重視しており、一律的に上から教育を施していくようなスタイルとは大きく異なりました。
音楽教育ひとつ取ってみても、ただ上手に演奏させるのではなく、音を聞き、音色を感じ取り、その上で音楽をつむぐ楽しさを感覚として体験してもらうことを大切にしていました。ある種、現代の最先端の教育方針にも通ずるような環境で黒柳徹子さんは育ったのです。
※トモエ学園のホール前集合写真
画一的な優劣というモノサシではなく、その子の得意不得意を受け入れてあげて、良いとこを伸ばしていく。こういった環境がその後の黒柳徹子さんの自由闊達さを育んだことは間違いないでしょう。
若い頃として別人の画像が氾濫
そんな黒柳徹子さんの若い頃がとても美人で可愛いと評判ですが、いろいろと間違った情報も出回っているようなので、ここであらためて整理したいと思います。
インターネット上では黒柳徹子さんが若い頃にとても美人だった証拠として、もっとも広く誤解されている画像は以下の2種の写真だと思われます。
別人の画像~ひし美ゆり子
以下の写真は、黒柳徹子さんが若い頃に美人だった証拠として、よく出回っている画像です。しかしこれは黒柳徹子さんの写真ではなく、女優の「ひし美 ゆり子」さんの写真のため明らかに間違いです。
ひし美ゆり子さんは黒柳徹子さんの14歳年下の昭和に活躍した女優さんで、1967年「ウルトラセブン」では友里アンヌ隊員役として抜擢されるなど人気を博しました。
しかし誤解はこれに留まりません。
別人の画像~鈴木その子
こちらも最初の画像に負けず劣らず、黒柳徹子さんの若い頃の話になると、ほぼ確実に掲載されている写真です。しかしこちらは、タレント業や化粧品販売業で有名だった鈴木その子さんの若い頃の写真のため別人です。
鈴木その子さんが創業者である化粧品販売会社の公式HPに写真の掲載があるため、これは確実な話ですね。
その他の誤解
野際陽子さんの若い頃の写真も、誤って取り上げられていることがあります。
インターネット上の情報はかなり錯綜しており、ひどい場合にはオードリーヘップバーンの画像が若い頃の写真として信じられているようです。
あまりに昔の時代なので、別人の顔を見てもすぐに判別ができずに、そのまま真実として広まってしまったことが主な原因と思われます。
また、昭和の時代のトップ女優を神格化して「絶世の美女に違いない!」という不思議な固定観念が働いて、このような誤解が生まれていることもあるかもしれません。
世間の声~なんJでも大人気
なんJをはじめとする各種まとめサイトや掲示板でも、黒柳徹子さんの若い頃が美人で可愛いと評判みたいです!冒頭にお伝えしたように、別人の画像が多いので注意は必要ですが、みなさん関心をもっているのがわかりますね。
ざっと検索結果をみたところ、掲示板関連の画像はほとんどが間違っていました・・・。インターネットではインパクトやギャップを重視するあまり、誤った情報が流れやすいのかもしれませんね!
まとめ
黒柳徹子さんの若い頃は美人で可愛い!
しかしインターネット上にはまったくの別人の写真も多く出回っており注意が必要です。
38歳で仕事を一時中断してニューヨークへ渡るなど、先進的な感覚を持つ黒柳徹子さん。
そういった個性が培われたのは、幼少期の教育方針がよい影響を与えた可能性が大いにあるといえるでしょう。
2023年には90歳を迎える黒柳徹子さんの今後の活躍に、ますます目が離せませんね!